蒲田に生まれ、昭和17年に改称された国民学校一年生になりました。鳴り響く
警戒警報や空襲警報のサイレンに逃げまどいました。20年3月10日の東京大空
襲の日は、オレンジ色に燃える下町の言葉で言い表せない情景を見ました。・・・
山梨の現在の都留市に生まれ、6歳の時に、父母は全財産を処分し、家族ぐるみ
で満州に行きました。国の命令によるもので、部落の全員が満州にいきました。国
が用意した土地は痩せ、説明されていた肥沃の場所は一つも無く、酷寒の荒れ地で
した。なんとか作物が作れそうな状態まですすんだところで敗戦を告げられました。
その後は地獄でした。父親と長男は徴兵されて居ません。母親と兄弟5人は逃げま
どい、母親と2人の兄弟もこのなかで死亡しました。・・・・
今年の東大和民商の平和の集いが8月4日(火)夜、事務所会議室で開かれ、25
人が、お2人の体験談を聞きました。
参加者からは、東大和にも軍需工場が作られたことで、空襲を受けるようになった
様子も話され、戦争は絶対にしてはならない、させてはならない、政府が戦争をしよ
うとしたなら、何が何でも阻止しなければならない、と話し合いました。